メニュー表示

メインメニュー

閉じる
甲賀の城の典型とである「単郭方形四方土塁」の構造をもつ新宮城(右)と新宮支城(左)
甲賀の城の典型とである「単郭方形四方土塁」の構造をもつ
新宮城(右)と新宮支城(左)

滋賀県は驚くことに1300カ所にのぼる城跡があります。なかでも旧甲賀郡にはひときわ多くその数300ともいわれ、このうち甲賀市内には約200の城跡が確認されています。甲賀の城は集落のなかやその背後の丘陵部に築かれた小規模なものが大部分で、その構造も周囲を一辺50メートルあまりの土塁と堀によって囲んだ「単郭方形」の構造をもつところに特徴があります。

方形に区画された曲輪(くるわ)を土塁や堀で囲み防御とする例は決してめずらしくはありませんが、同一の構造の城が地域全域に、しかも同時期に多数築かれたのは、隣接する三重県の伊賀地域を除いて他では見ることはできません。小規模な城が地域内に群在する姿こそが、甲賀の城の最大の特徴であり、それは戦国時代の甲賀の社会のありかたをひもとく「鍵」ともなるのです。

戦国時代の甲賀郡は、飛び抜けた領主がいなかったかわりに、谷ごとに土豪、地侍たち(甲賀衆)によって支配されていました。しかもその支配は本家である惣領家だけでなく、同じ性をもつ家(同族)どうしが結束してあって行うところに特徴があり、そういう一族の結合を「同名中」と呼び、掟を定め、戦の時の動員や、もめごとの解決などを寄会で合議し決定したと考えられています。

戦国時代後半にもなると、まず近接する同名中どうしが連合し、さらに広域(信楽を除く甲賀上郡域)の地侍が連合して地域を治めようとする「郡中惣」へと発展していきます。しかし、いずれの場合も地侍の連合に変わりはなく、最後まで領主権力を一カ所に集中させる方向に行くことはありませんでした。このような小領主間で横方向に連なる体制は、同じ大きさで、同じ形の城が地域内に群在する甲賀の城の姿と見事に符合しているといえます。

甲賀の城は1980年代後半から調査が進み、平成20(2008)年には、「甲賀郡中惣遺跡群」として5つの城が国の史跡に指定され、さらに翌年には甲賀衆の結束と寄会の場であった矢川神社と油日神社の両境内地が追加指定されています。指定された城跡はいずれも典型的な甲賀の城であり、集落に寄り添うように築かれています。このうち新宮城跡は、複数の曲輪を連ね主郭への進入路を屈曲させて、枡形状虎口を造っています。またそれに隣接して築かれた新宮城支跡は、高さ10メートルに及ぶ高く分厚い土塁で四周を囲み、両サイドを深い堀切で防御しており、新時代の技術も取り入れた甲賀の城のひとつの到達点を示しています。「単郭方形四方土塁」を基本に、時代によって様々に工夫がなされた甲賀の城。現地を訪れてのその歴史を体感できるのも醍醐味といえるでしょう。

このページに関するアンケート(歴史文化財課)

QuestionRepeater
このページの情報は役に立ちましたか?
[id1]
このページに関してご意見がありましたらご記入ください。
(ご注意)回答が必要なお問い合わせは,直接このページの「お問い合わせ先」(ページ作成部署)へお願いします(こちらではお受けできません)。また住所・電話番号などの個人情報は記入しないでください