メニュー表示

メインメニュー

閉じる
近年の調査で紫香楽宮の宮殿が置かれたことが明らかとなった信楽町宮町地区
近年の調査で紫香楽宮の宮殿が置かれたことが明らかとなった
信楽町宮町地区

天平13(742)年2月、山城国相楽郡から近江国甲賀郡へ向けて一本の道が切り開かれます。「続日本紀」に載る「恭仁京東北道」と呼ばれるもので、その終着点が現在の甲賀市信楽町、聖武天皇の「紫香楽宮」が営まれた地です。

紫香楽宮の宮殿がどこにあったのかについては長い考証の歴史があります。まず候補地にあげられたのが信楽町黄瀬から牧にまたがる丘陵です。江戸時代の貞享年間(1684~87)に書かれた『淡海温故録』には、この丘陵上に礎石があり、古瓦が出土することから、聖武天皇の内裏、そして大仏殿の旧跡としています。また元禄2(1689)年に記された『淡海録』はこれを淳仁天皇の「保良宮」とする説を、さらに享保19(1834)年の『近江輿地志略』ではこれを「甲賀寺」の跡としています。いずれにしても、江戸時代にはここが紫香楽宮に関連する重要な場所だという認識はあったわけです。

宮町から出土した柱根
宮町から出土した柱根

近代に入り大正12(1923)年には、黒板勝美が同地の視察を行い、同15(1926)年には、「内裏野」と呼ばれていたこの場所が「紫香楽宮跡」として国の史跡に指定されます。謎の宮はその場所が確定したかにみえましたが、その直後からこの遺構は寺院跡だとする指摘があり、昭和5(1930)年には肥後和男に改めて現地調査が行われ、礎石遺構が東大寺の伽藍配置に類似していること、出土瓦が山城国分寺跡(木津川市)出土のものと同じ笵型を用いてつくられていることなどから、丘陵上の遺構を奈良時代の寺院跡とする見解がだされました。以後、この遺構の性格と紫香楽宮の所在地をめぐって諸説が出されますが、いずれも決定的な論証には至りませんでした。

この状況が大きく変わるのは昭和50年代に入り、史跡の北方2キロメートルにある宮町地区が新たな候補地として注目されるようになってからのことです。そのきっかけは昭和50(1975)年、宮町の民家に直径40センチメートル、長さ70センチメートルほどの「柱根」が保存されていることがわかり、これが昭和48(1973)年頃から行われたほ場整備の際に、土器などと一緒に出土していたことが判明したのです。黄瀬・牧地区の丘陵上の遺構を寺院跡とする説は江戸時代からありましたが、それに代わる宮跡比定地は従来全く提示されていなかったので、宮町での柱根の発見はまさに「事件」でした。

これを契機に昭和55(1980)年から遺跡の分布調査がおこなわれ、奈良時代の遺物が散布する遺跡が複数発見され、「紫香楽宮」の関連遺跡が従来の史跡範囲よりも拡大することが明らかとなります。つまり宮跡を宮町地区の水田地域に考えることで、初めて黄瀬・牧の丘陵部から離れることが可能となったのです。以後、この地は「宮町遺跡」として発掘調査が開始され、宮殿と考えられる遺構や夥しい数の遺物が発掘され、平成17(2005)年には史跡紫香楽宮跡に追加して指定されます。現在では黄瀬・牧地区の遺構は「寺院跡」、宮町地区の遺構は「宮殿跡」と考えられるようになりました。

近年の出来事としては平成19(2007)年には宮跡へ天皇皇后両陛下の行幸啓が行われたこと、「歌木簡」の出土が確認されたなどが記憶に新しいところですが、聖武天皇が造立を発願した大仏の体骨柱が建った場所ははたしてどこかなど、紫香楽宮をめぐる謎はまだまだ解決されていないことが多いのも事実で、今後の継続的な調査が期待されています。詳しくは『甲賀市史』第1巻「古代の甲賀」をごらんください。

このページに関するアンケート(歴史文化財課)

QuestionRepeater
このページの情報は役に立ちましたか?
[id1]
このページに関してご意見がありましたらご記入ください。
(ご注意)回答が必要なお問い合わせは,直接このページの「お問い合わせ先」(ページ作成部署)へお願いします(こちらではお受けできません)。また住所・電話番号などの個人情報は記入しないでください