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田村将軍の鈴鹿の鬼神退治
田村将軍の鈴鹿の鬼神退治

近江と伊勢とをつなぐ鈴鹿峠は、箱根とならんで東海道の難所として聞こえてきました。ここは古墳時代の土器が採集されるように、古くから峠として利用されていたことは確実ですが、とくに平安時代の仁和2(886)年、東海道がここを通るようになって以降は、近畿と東海を結ぶ要地として重視されてきました。

鈴鹿峠は都の役人が襲撃されたことが記録されているように、「山賊」の横行することでも都人に恐れられてきました。『今昔物語集』には京都の水銀商いが日ごろ手なずけていた蜂で山賊を撃退する話がのっていますが、実際には「山賊」とは峠を支配し警固する武士であったと考えられています。

さて、この鈴鹿峠をめぐる伝説に、坂上田村麻呂が山賊を討伐したという話があります。

田村麻呂を祀る田村神社
田村麻呂を祀る田村神社

『東海道名所図会』にはこれを「鬼神退治」として描いていて、庶民のあいだにもよく知られた伝説であったようです。そんなわけで江戸時代には峠の上と近江側の麓にあたる土山に、それぞれ田村麻呂を祀る「田村社」が存在しました。後者が現在の田村神社です。

田村麻呂は平安時代の初期に桓武天皇に仕えて蝦夷との戦争に活躍した実在の人物ですが、武勇で知られた田村麻呂への崇敬が、「山賊」という言葉に示される旅路の危難を除けたいと思う庶民の祈りと結びつき、さらにはそれが峠の神の信仰と習合したと解釈されます。

田村神社では、毎年二月に「厄除け大祭」が行われ多くの参詣者で賑わいますが、それは旅路の安全を守る峠の神が、厄除けの神として信仰を寄せられたかたちで、そこに古代から現代に至る鈴鹿峠の長い歴史と、田村麻呂によせる庶民信仰の推移をうかがうことができます。

詳しくは『甲賀市史』第1巻をごらんください。

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