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正福寺宝篋印塔(甲南町杉谷)南北朝 市指定
正福寺宝篋印塔(甲南町杉谷)南北朝 市指定

鎌倉時代から室町時代にかけて、中世には仏教の塔婆や仏像を石に刻んで祀ることが盛んに行われました。これはかつては国家や大寺社、貴族などに独占されていた仏教信仰が広く庶民にまでいきわたり、地方にあっても在地の領主や富裕な農民などによって作られたこと、固い花こう岩を自在に加工する技術が中国から石工とともにもたらされたことなどが背景にありますが、石造であってもその功徳は木造の堂塔や仏像を造立することと変わらないと考えられたうえに、各地で合戦が起こった中世にあっては、堅固な石は木造よりも安心感が得られたことでしょう。

当時最も盛んに作られた大和国(現在の奈良県)に近い甲賀郡は、近江のなかでは良質の石材を産した蒲生郡に次いで優れた石造文化財の多いところです。

しかも、その特徴は一色ではなく、細部の意匠や石材などによって、大きく三つの地域に分けることができます。まず野洲川の支流である杣川をおおよその境界として、これより信楽谷を含んだ市の南部には大和の強い影響を受けたものが多く、またこれより北は近江特有の装飾文をそなえたものが広く見られます。

多羅尾滝の脇磨崖石仏群(信楽町多羅尾)鎌倉~室町 市指定
多羅尾滝の脇磨崖石仏群(信楽町多羅尾)鎌倉~室町 市指定

さらに東北部の土山方面では、日野町蔵王の石を用いた同地の石工による作品が広く見られるといった具合です。このような作品の分布は当然ながら制作した石工の系譜の違いを示すものと考えられ、甲賀が近江と大和の文化が出会う場所であったということができるのです。

詳しくは『甲賀市史』第6巻をごらんください。

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