巖谷小波と『我楽多文庫』
『我楽多文庫(がらくたぶんこ)』とは明治18年に尾崎紅葉、石橋思案、山田美妙、丸岡九華、久我亀石らで作られた文学結社「硯友社(けんゆうしゃ)」で発刊されていた同人雑誌の事で、最初の第一号から八号までは筆写本として発刊され、第九号からは印刷本として発刊されています。
小波は当時、独逸学協会学校に通っており、そこで友人となった高階柳蔭は研友社の会員で石橋思案と繋がりがありました。小波はこの時、高階柳蔭を通して会費を硯友社に納め、原稿を我楽多文庫に載せてもらっています。そして、我楽多文庫に漣山人として初めて連載された作品が処女小説「真如の月」です。これはドイツ語を学ぶ男女の学生を描いた作品で、キリスト教の洗礼を受けた番町協会での体験を元にしていると考えられています。
今まで硯友社の社員のみで共有されていた我楽多文庫でしたが市販されることになり、その公刊発売本としての第一号に掲載され、連載が始まった小波の作品が『五月鯉』です。この作品は少年少女の淡い恋愛を描いたもので、後に『初紅葉』と改題されて単行本化、発売されるまでに至っています。
『我楽多文庫』第一輯巻一
(複製)当館蔵
こがね丸の発表
『初紅葉』の単行本発売に続いて吉岡書店より『妹背貝』が発刊され、徐々に漣山人の筆名は知られ始めていました。そんな中、明治24年(1891年)に博文館より児童雑誌の『少年文学』第一巻が発刊されます。その第一巻に掲載されたのが漣山人の名声を高めることになる『こがね丸』です。
この『こがね丸』は父親を虎に殺された犬のこがね丸が父親の敵討ちに向かう話で、小波が一から創作したその寓話は少年、少女達の好奇心を駆り立て、社会的にも好評を博しました。また、当時子どもを読者の対象にした小説は珍しく、その序文において森鷗外は「奇獄小説に読む人の胸のみ傷めむとする世に、一巻の穉(おさな)物語を著す。これも人真似せぬ一流のこゝろなるべし。」と小波に対して称賛する言葉を述べています。
小波自身は子ども達にどうすれば『こがね丸』が受け入れてもらえるか考えて執筆しています。当時の子どもは普段から文語体を使っていたことから、子どもが内容を理解し易いようにと、あえて小波が小説の執筆でよく使っていた言文一致体ではなく文語体で執筆したことが序文に続く凡例の中で述べられています。
『こがね丸』当館蔵
『日本昔噺』の刊行
明治27年(1894年)博文館の大橋新太郎から日本の有名な民話や説話、伝説を一定の様式にまとめて発刊する企画が小波に持ち込まれ、小波は一人で各地の民話や伝説を昔話としてまとめ上げます。
始めは全12編で発刊された『日本昔噺』ですが人気のため全24編になりました。その後、『日本昔噺』では収録しきれなかった話を含めて新たに『日本お伽噺』を全24編で刊行すると、海外の民話や説話を収録した『世界お伽噺』を全100編、『世界お伽文庫』を全50編で刊行しました。また、『世界お伽噺』の発刊が終了すると袖珍本(しゅうちんぼん)という、袖の中に入れて携えられるくらいの小型本として『日本昔噺』『日本お伽噺』『世界お伽噺』がそれぞれ再編・改訂され発刊されました。日本の子ども達は海外の昔話を通して異文化の存在を意識したのではないでしょうか。
この整理により、今日において誰もが知っている日本昔話の原型が出来上がったと言われています。
『日本昔噺』第一編 桃太郎 当館蔵
『少年世界』主筆として
小波は日出新聞社(※現・京都新聞)の文芸記者を経て、大橋新太郎の誘いを受けて博文館に入社します。大橋新太郎から新しく創刊する『少年世界』の主筆編集者になって欲しいと打診を受けたためです。
博文館は明治27年(1894年)当時『幼年雑誌』『少年文学』などの雑誌を統合し、児童向け雑誌として『少年世界』を、一般向け雑誌として『太陽』をそれぞれ創刊し、博文館の雑誌をその二大雑誌へ整理する計画を立てていました。
小波はその打診を受け、日出新聞社にはしばらくの間原稿を寄稿するという条件で退社します。元々『こがね丸』の発表後も人情作家としての大成を目指していた小波でしたが、この打診を受けることで本格的に児童向けお伽噺の執筆に取り掛かる決心をしたと言えるのではないでしょうか。
小波を主筆編集者に迎えた『少年世界』は明治28年(1895年)に創刊されました。その内容は社会情勢を反映したものが多く、日清戦争の最中であり、戦争関連の記事が多く、小波もまた戦争関連のお伽噺を執筆しました。
『少年世界』第一巻第一号
甲南ふれあいの館蔵