むかし、殿山という山の頂上に権現さまがまつってありました。そこには、大きな木がうっそうと茂り、昼も暗く里の人もおそろしがっておりました。その権現さんに人身御供(娘をおそなえする)ならわしがありました。娘を持つ親たちの心配は、たいへんなものでした。
毎年そのころになって、もしも屋根に白い羽の矢が立っていたらそれこそ大へん。娘をお供えしなければならないからでした。 やねに白羽の矢が立った家では、親は泣く泣く娘にいい聞かせました。そして、涙ながらに身をきよめ白しょうぞくに着がえて、村のみんなとお別かれしました。
村の人は、娘を白木の箱に入れて権現さまの広場までになっていって置いてきました。そのあとは、たぶん悪魔にでも喰われたのでしょうか。
ある年のこと、みんなが泣いているところへ力の強よそうな武士が通りかかりました。武士はこの話を聞き、「これはかわいそうだ。わしが助けてやろう。」と、娘の身がわりになって白木の箱に入りました。そして、権現さまの前の広場でまっていると、悪魔がきて箱のふたをとろうとした時、武士が箱からとび出して、悪魔を退治してくれました。
それからは、人身御供のならわしはなくなり、村は平和でみんなも笑顔をとりもどしたそうです。
昔々、村の山奥に「つづろ」という所がありました。そこに昔から「姫が池」と呼ばれている池がありました。 池にはこんな伝説がありました。 冬になると子ども達は、凧を揚げて遊んでいました。
その頃になると、毎年のように若いきれいな娘さんがどこからともなく現れて、高く揚がる凧にむかって哀願しているかのように見えました。この話が村に伝わり、「それは池に住む龍女の化身ではないか」と噂されるようになりました。村の人は、一度も干上がったことのないこの池は龍神さまの棲む池だと信ずるようになりました。
そして、雨を恵んでくださる池であるとの噂がたちまち村中に広がっていきました。
ひでりの日々がつづき、田も畑もからからに乾く頃になると、近くの村人たちは、それぞれに竹筒をさげやって来ます。「雨たもれ」とお願いしながら、池の水を竹筒にくみ家に持ち帰りました。
そして、神さまに水をお供えして雨乞いをすると、必ず雨がいただけたそうです。 村のお年よりの話によると、明治初期のひでりつづきで困ったときには参詣者が長い列をつくり、一時は道ばたに茶店までできたそうです。
夏の夜もだいぶふけてきました。あれほど大きかったおどりの輪もだんだん小さくせまくなっていきました。踊り子もつかれがでてきたらしいのです。その頃、「佐治の小佐治の桝形池は、あほらーしーやおまへんか、これーさ出ず入らず、とこやっしょこ、すいりょ、すいりょ」と、江州音頭とともに夏の盆踊りのおわる頃むすびとして歌われたものです。
この歌は、天正の頃佐治城主が近くの五つの郷を治めた頃に始まったと言われています。人びとは、平和な毎日を送っていましたが、天正十二年、織田と豊臣の戦いにまきこまれ、ついに城は落ちてしまいました。
この城の中にある桝形池は、どんなにひでりがつづいてもわき出る水は枯れたことがありませんでした。桝形池には、一つの悲しい話が残されているのです。
佐治城が戦いで落ちた時、城主の奥方は、城主といっしょに桝形池に身をなげて死んでしまったのです。奥方はその時、村人たちに「私が死んだあと、もし困ったことがあったら、かならず願いをかなえてあげましょう。」との言葉を残したと伝えられています。
それからは、夏のひでりが続くたびに、村人たちは、たいまつをふりかざして、この山頂に集まり「雨たもれ」と願をかけたということです。
むかしばなしの今
小佐治すいりょう太鼓は毎年「和太鼓サウンド夢の森」として、夏の夕ぐれのひとときに甲賀町鹿深夢の森で盛大に披露されています。