天正時代のある秋の日のことでした。
このころ、近江の国(今の滋賀県)をおさめていたのは、八幡山の城主「豊臣秀次」でした。秀次は、守護という役についていました。この日、秀次は、視察をしている途中、信楽の城主「多羅尾道賀」の案内で、道賀の長男「光太」の多羅尾城に招かれました。
城に入った秀次の耳に、やしきの奥庭の方から美しい琴の調べが聞こえてきました。秀次は、その美しい音色に大へん感激して、琴をひいている人はだれかと名前を聞きました。それは、城主光太の万という娘でした。
万は大へん美しくてぼたんの花のようにかがやいていました。秀次は、ひと目で好きになり、ことわる万をぜひぜひにと、むりに側近くに呼びよせたのでした。
秀次は、万を心から愛し、万も万の方さまと呼ばれ、秀次にかいがいしく仕え、仲むつまじく暮らしていました。 ところが、わが子秀頼に二代目をつがそうとした秀吉によって、秀次は高野山へ追われ、切腹させられてしまいました。
お万の方も秀次の子どもといっしょに京都三条河原で打ち首というむごい刑でこの世を去ったそうです。
昔から、高宮神社のお使いは、狼であるといわれていました。 ある日、村の猟師が高宮神社に行ったとき、狼が礼拝所の入口でお供え物を食べているのを見つけました。
猟師は、神楽堂の上から狼めがけて鉄砲でうとうとしました。鉄砲を向けると神楽堂の下から狼の鳴き声がします。鉄砲を下げると泣き声は止むのでした。また、向けると鳴き声が聞こえてきました。猟師は恐ろしくなって家へ逃げ帰りました。
高宮神社の狼は、善人と悪人をよく見分けました。信心深い心の美しい人が夜遅く峠道を通りますと、安全な所までついてきてくれます。心の汚れた悪人が通りますと、どこまでも追いかけてきてかみつきました。
子ども達は、母親からよく聞かされました。「おばあさんが、ときどき夜半に起きて、廊下に出て手を合わせて拝んでいました。どうしたのかと訳を聞くと、おばあさんは『今、高宮さんの使いの方がみえて、屋敷を見まわっていてくださる。おまえもよくお礼を申し上げなさい』といっていました。」と。 高宮神社の狼は、お宮さんのお使いをして、このように夜半に村中を見まわって警かいしていてくださる・・・・・。 といって村の人たちは、狼を大切にいたわり、猟師も決して鉄砲で打つようなことはしなかったということです。
多羅尾から御斉峠へのぼる道ばたに、「弘法の井戸」とよばれている井戸があります。 むかし、弘法大師というえらいお坊さんが峠のあたりに立派な寺をたてようと村のあちこちを歩いておられました。お坊さんは、とてものどがかわいたので水が飲みたくなりました。
ところが、このころずっとつづいた日でりで水がありませんでした。
どこの家へたのんでも水を飲ませてくれません。しかたなくお坊さんは、御斉峠にさしかかる道ばたに、大きな岩をひっくりかえして穴をほりました。
すると、穴からこんこんと水がわき出てくるではありませんか。お坊さんは、やっとのことで水をのみ、からからにかわいたのどをうるおすことができました。
お坊さんは、だれでもいつでも飲みたい時に水が飲めるように、石をきずいて井戸を作りました。 この井戸は、長い日でりがつづいて村じゅうの水がなくなっても、いつもこんこんと水がわき出てかれることはありませんでした。旅の人や村の人たちから、「弘法さんの井戸」と名づけられて、峠を通る人たちののどをうるおし、かんしゃされたということです。
弘法の井戸
滋賀県信楽町と三重県上野市の県境に近い多羅尾のタカラカントリーの入り口に弘法の井戸がありました。
僧空海(弘法大師)は唐から帰って、真言宗を開きました。(806年)が、その後空海は、真言密教の聖地を求めて諸国を巡礼の折、多羅尾の里にこられ、くまなく歩かれた時に、旅人のためにここに井戸を掘られたと伝えられています。
その後、誰がいうことなしに村人たちは、この井戸を弘法の井戸と呼ぶようになりました。なお、この井戸は、どんな日照りでも水は枯れたことがないと言われています。