リアルな「忍者」を求めて
忍者は今やテレビやアニメを通じて海外にまで広く知れ渡り、奇抜なアクションで人々を魅了しています。江戸時代の最初期にイエズス会が刊行した『日葡(にっぽ)辞書』に、「Xinobi」(シノビ)の語が収録されており、戦国時代に「忍び」が活動し、日本人以外の人々にも知られていたことは明らかです。その後忍者や忍術に対してはさまざまなイメージが与えられてきましたが、その実像はこれまで謎に包まれてきたといえます。
地域の平和を守った「甲賀衆」
甲賀(こうか)といえば隣接する伊賀(いが)とともに「忍びの里」として広く知られています。戦国時代、実際にその軍事的スキルを発揮したのは、「甲賀衆」と呼ばれた土豪・地侍たちであったと考えられます。彼らは飛び抜けた大名を主と仰ぐのではなく、互いに連携して地域を守っていました。それは「同名中(どうみょうちゅう)」や「郡中惣(ぐんちゅうそう)」と呼ばれる中世史上にも名高い広域で共和的な自治の姿として結実します。一方、甲賀のもつ地政学的位置は、孤立的な平和を許すものではありませんでした。彼らは外に向かって常にアンテナを立てて情報収集に努め、畿内はもとより各地の大名に請われ、その最前線で活躍しました。そこで求められた軍事的スキルとして「忍び」の働きがあったのでしょう。
「忍者」を生み出した甲賀の風土
忍者を生み出した甲賀と伊賀には、いずれも太古の琵琶湖が形成した古琵琶湖層からなる丘陵地があり、それが樹枝状に侵食された谷地形が広がります。見晴らしのよい丘陵の先端や谷の入り口には必ずといっていいほど城館が構えられ、守りが堅く、複雑な地形はどれもが同じようで攻める者を混乱させます。一方で京都や奈良などにもほど近い要地であり、情報が入りやすく、時の権力者の恰好の亡命地でもありました。
リアル「忍者」に会える場所
甲賀の地はまた、宗教的聖地の一つでもあります。中世修験道(しゅげんどう)の一大霊場として聞こえた飯道山(はんどうさん)では、今も山伏たちが唱える祈りの声が響き渡り、呪文と印を結ぶ山伏の姿や、もくもくと焚き上げる護摩の煙に、現代に生きるリアルな「忍者」が感じられます。巨岩、奇石が屹立した山伏の行場を巡ると、自然を相手に心身練磨をした忍者の姿を追体験できるでしょう。また里に下りれば平安時代をはじめとした全国屈指の古像や、甲賀衆が崇敬した古社が私たちを迎えてくれ、甲賀の忍びたちがその奥義を記したという「忍術書」が発する神秘性や呪術性の背景をうかがい知ることができます。
エンターテインメントの世界では人々の想像力を掻き立て、多くのスーパー忍者を生み出しましたが、21世紀の今日、戦国の世とは程遠い穏やかな甲賀の風景のなかには、リアル忍者が活躍した痕跡が確かに息づいているのです。