「水口藩加藤家文書」の発見
水口藩の歴史は、天和2(1682)年、石見国吉永1万石の加藤明友が、2万石で加増のうえ水口に入ったことに始まり、一時期を除いて加藤家が藩主を勤めました。しかし、その実態については、史料の不足もあり、不明な点が多く残されていました。
そのような中、水口町松栄にあった加藤家の「お蔵」に大量の古文書が残されていることが分かり、市では国庫補助金を受けて、平成18(2006)年度から4年をかけ詳細な調査を実施しました。その結果、近世初期~大正期の総点数1万3983点(うち近世3241点・近代9125点・その他1617点)にも及ぶ古文書群であることが判明しました。
「水口藩加藤家文書」と名付けられたこの古文書群には、以下に紹介するように実にさまざまな史料が含まれています。
豊臣秀吉朱印状と徳川将軍御内書
まず注目されるのが、水口藩加藤家の「藩祖」であり「賤ヶ岳の七本鎗」の一人として有名な加藤嘉明へあてた、豊臣秀吉の「朱印状」8通と、初代将軍徳川家康以降14代家茂にいたる、歴代江戸幕府将軍からの「御内書」644通です。多くは儀礼的内容ですが、特に御内書は膨大なうえ保存状態が良く、また藩としてそれらを厳重に管理していた様子を窺えることもあって、学術的にも貴重なものとなっています。
※御内書:将軍から大名へ出された、書状の形式をもつ公的文書。端午・重陽・歳暮の三季献上に対する礼状が大部分。加藤家文書のものには、将軍の黒印が捺されている。
江戸幕府老中奉書と大名からの書状
水口藩の成立や、藩主加藤家への軍役賦課などを示す「老中奉書」等約400通をはじめ、幕府役人や他大名などからの書状約200通も豊かな内容を含む史料群です。このうち老中奉書には、天和2(1682)年に加藤家が水口を拝領した時のものや、水口城の石垣・門の修復に関するものなどが含まれています。これらを読み解くことで、加藤家・水口藩と幕府の関係や、加藤家が他の大名家等と取り結んでいた関係の一端をかいま見ることができます。
※老中奉書:江戸幕府の老中が命令等を通達する公文書。例えば、居城の修復は、幕府へ願い出たうえで老中奉書によって許可される必要があるなど、重要な文書であった。
大坂加番記録
加藤家は合計6回大坂加番を勤めましたが、加藤家文書にはこの関係の記録史料52点が含まれています。例えば「大坂在番中日記」(計7冊)には、大坂加番中の1年間の職務や日々の行動等が記されるほか、加番を勤める際のマニュアルも残されており、一大名家の具体的な動向を知ることのできる、興味深い史料群です。
※大坂加番:4人の大名が1年間、大坂城内の山里・中小屋・青屋口・雁木坂の4箇所を守衛する役職で、主として1~2万石クラスの譜代大名が勤めた軍役。
藩政史料
加藤家文書には、水口藩政に関わるものも多く含まれています。中でも、享和2(1802)年以降断続的に残る、江戸藩邸でまとめられた分厚い「日記」には、江戸での加藤家の動向を中心に水口のようすを含め、多岐にわたる記事が書き継がれています。
また、水口藩の村絵図など在地支配に関するもの、藩財政・家臣団・藩士統制等に関わる史料など、合わせて705点あり、従来史料的に追えなかった水口藩について知ることのできる、大変貴重な史料群です。
加藤家の家文書
公的なものばかりではなく、江戸時代の加藤家としてのどちらかといえば私的といえるものも446点あります。例えば家督相続や藩主書状、また道具(武器・書物など)管理に関するものが残されており、江戸時代の加藤家を理解する上で役立つものとなっています。
水口藩加藤家文書の価値
以上の近世史料以外に、近代(明治以降)のものが大量に残されています。王政復古の頃の水口藩知事任命書や、廃藩置県にともなう明治政府からの一連の通達類をはじめとする、ほとんど不明であった近代水口藩から華族加藤家への移行期に関するもの、また加藤家のみならず、華族全体の動向を知ることもできる書状・廻達文・記録などが多くあります。これらは、近世のものと合わせて、全国的にも貴重な古文書群といえます。
今後、当文書を活用することで、市域の江戸時代から近代における藩政・加藤家のありようにとどまらず、それらが全国とどのように関わっていたのかについても、よりいっそう明らかになっていくことが期待されます。